中世から未来へ つむぐ 伝える
大山崎えごまものがたり

かつて「えごま」の灯明油で大いに栄えた大山崎
今また、「えごま」を中心に新たなつながりがはじまっています。・・・P12-13

「えごま」の歴史を少々

egoma1「えごま」は漢字で書くと「荏胡麻」。シソ科の1年草の植物で、毎年秋に実がなります。それを絞った油が「えごま油」です。戦国時代以降に菜種油にとって代わられるまでは、油といえば「えごま油」のことをさしました。
大 山崎では平安時代からこの「えごま」を使った灯明油が大量生産され、土地の利便性もあいまって、活発に商いが行われました。大量生産を可能にしたのは「長 木(ながき)」という油絞りの道具で、こちらはなんと、離宮八幡宮の宮司さんが神様のお告げによってつくったと伝えられています。
その後、大山崎のえごま商人たちの活動はさらに勢いを増し、「油座」という同業組合もつくられ全国へ販路を拓いていきます。当時「大山崎油座」といえば、全国に名を響かせる一大組織。その中心にあったのは、やはり離宮八幡宮でした。

離宮八幡宮と「えごま油」

egoma2離宮八幡宮は、貞観元年(859年)、国家安康・国民平安を願ってときの清和天皇によって御遷座されました。のちに朝廷から「油祖」の名を賜り、油座とし てえごま油の専売特許権を持ち、ますます栄えました。当時は「西の日光」と呼ばれるほど立派な社殿を構えていたといわれます。
このような歴史から、現在でも通称「油の神様」として親しまれ、春と秋の例祭には全国各地から油を扱う企業の人々が参拝します。とくに春の「日使頭祭(ひのとさい)」では100社以上が集まり、境内がいっぱいになるほどです。

「えごまクラブ」の誕生

egoma3町の発展の歴史を担ってきた「えごま」も、江戸時代以降は生産が途絶え、すっかり影をひそめました。町に住む人も、「えごま」という名前を耳にする機会はほとんどありません。
しかしそんななか、「えごまを町の活性化に使えないものか?」との思いを持つ有志が集い、復活に向けて動き出しました。まずは、えごまを育てるところからスタートです。
もともと大山崎ではえごまは栽培されていなかったため、どんな植物かさえ知らない人がほとんど。手探りの状態からはじまったにもかかわらず、収穫、搾油までやり遂げたときの喜びはひとしおだったといいます。
み んなでつくったえごまをもとに、その歴史を学んだり、調理して食べたり、アロマ水の抽出やせっけんづくりや、天王山の間伐材を使った箸にえごま油を塗装す るなど、まさに「えごまづくし」の活動を楽しみました。加えて、町内外の人々に向けてワークショップや料理を味わってもらう機会をつくり、「えごまの大山 崎」を発信していきます。このような歩みのなかから、2012年、「大山崎えごまクラブ」が誕生しました。

地元の子どもたちと一緒に

egoma4「えごまクラブ」では、先に触れた離宮八幡宮考案の「長木式搾油機」を、宮に残っていた古図面をもとに復元。長さ約3メートル、高さ1・2メートルと大人 が10人がかりでやっと動かせる重量の迫力あるものですが、実はこれでも実物の2分の1のサイズ。当時の豊富な生産量がしのばれます。
地元の大山崎小学校で小学生と一緒にえごま栽培を行う出前授業も始まりました。
春 の種まきから畑への苗の植え付け、間引き、夏の水やりを経て、秋の収穫と脱穀。年末にはいよいよ搾油です。「長木式搾油機」を体育館に運び込み、保護者も 一緒に油搾りを体験します。年明けには、家庭科の授業でえごまクッキング。えごまクラブのみなさんも招待を受けて、一緒にクッキーなどを美味しくいただく そうです。
2014年には別のタイプの「締め木」を使った「立木式(たちぎしき)搾油機」がつくられました。こちらの作業にも子どもたちが参加。職人さんの指導のもと、まずは20分の1のミニチュア版を制作。その後本物を組み立て、完成までしっかりと取り組むことができました。
このようにして、大山崎の子どもたちは、「えごま」をわが町の大切な財産として、体験を通じてからだごと学んでいくのです。

egoma5